箱根湯坂道を歩く ― 尾根筋の穏やかなハイキング
箱根調査行2日目午前は、湯本から湯坂道を経て芦之湯へ抜けた。
湯坂道は、平安時代に開かれた古道。
江戸時代に開かれたいわゆる『箱根八里』より前の箱根越えの主要ルート。
前回言及した温泉道(現・国道1号線)と並行しながら、稜線を静かに進む山道である。
現在は登山道として整備されている。
古代の旅人はどれくらいキツイ道を歩いていたのだろうか?
そして、江戸時代に石畳の『箱根八里』に付け替えられたことは人々にどのようなメリットをもたらしたのだろうか。
湯本から湯坂道取り付きへ
2025年11月2日(日)、午前6時。
小田原駅前ロータリーには一台のバスが発車を待っていた。
箱根登山バス湖尻行き。
早朝便にもかかわらず、バスは登山客で満席だった。
「温泉場入口」で下車。
ここは箱根七湯の中でも最古の湯本温泉が初めて開かれた土地に近い。
現在は日帰り入浴施設『和泉』が営業している。
そんな「箱根湯本最古の源泉」の脇に湯坂道の取り付きがある。
「熊出没注意」の看板が目印。
今どき、どこでも登山道入口のお約束だ。
湯坂道は湯本から一気に稜線に登る。
つづら折りになった道を「エッチラオッチラ」登っていくと20分ほどで稜線に着いた。
標高で言えば300mあまり。箱根湯本の標高は96mらしいので一気に200m斜面を登った。
安定した稜線の道
ここから先、標高834mまで登るが、尾根筋の道は穏やかだった。
ぬかるみも少なく、風が抜け、橋もない。
水はけよく安定した稜線は、まさに“歩行者のための道”と言えるだろう。
左右に時々見られる眺望や山の植物を楽しみながら進んでいくと、あっという間に801m 浅間山のピークに到達した。
時刻は9:00、実際には2時間歩いていたが、あっという間に感じた。
ここはテーブルとベンチがある広い山頂。
戦国時代には山城が築かれていたらしい。
休憩していると、登山客が何人か通り過ぎていった。
湯本から登る人はほとんど見かけなかったが、
より山頂に近い宮ノ下、大平台、小涌谷の登山口から入山したパーティーと合流したようだ。
国道1号線と合流後
休憩を終え出発。
最高地点、鷹ノ巣山を越えて、国道1号線と合流するまでには40分もかからなかった。
国道1号線、古くは 温泉道 と呼ばれた湯治客のための小径。
芦ノ湖へは更に2時間ほど歩かなければならない。
前日も訪れた芦之湯温泉『山形屋』さんの前を通った。
2日連続だけど、汗を流させてもらおう。
さて、誤解が多いけど「湯坂道」の最高地点は鷹ノ巣山(834m)ではない。
温泉道・国道1号線との合流後に存在する。
そこには「国道1号最高地点 874m 神奈川県」と書かれた大きな看板がある。
ここは現在、箱根駅伝のハイライトだ。
この日も何人かのランナーが走っていた。
元箱根石塔・石仏群、精進池、お玉ヶ池といった名所を横目に山道を抜けていくと、
石畳みの道が横切ってきた。
須雲川沿いからやってきた「箱根八里」である。
箱根八里の石畳は歩きやすいのか?
箱根八里の石畳みは、現在の私達には歩きづらい。
江戸幕府は当時最先端の土木技術を用いてこれを作ったという。
では、江戸時代の草鞋では歩きやすかったとでもいうのか?
私はそうとは思わない。
おそらく江戸時代の人々も「石がゴツゴツして歩きづらい」と思っただろう。
しかし、この技術が必要だった。
谷筋の箱根八里はぬかるんでいる。
雨が降ればたちまち水没して歩けなくなってしまったらしい。
そこで、石を敷き詰めることで水はけを良くし、悪天時でも通行できるようにしていたという。
重大な疑問
しかし、
なぜそこまでして、湯坂道から石畳の道へ切り替えたのだろうか。
湯坂道は、水はけが良く、高度な土木技術を用いずに維持できるだろう。
その謎に対して、多くの研究者が文献研究などを元に考察を述べている。
代表的なものとしては、次のようなものがある。
- 防衛上の戦略説: 見晴らしが良い湯坂道は敵軍にとって見晴らしが良くなってしまう
- 実際に湯坂道上には複数の山城が築かれていた
- 民需説: 谷筋のほうが水資源や木材に恵まれる、休憩場の確保も容易
- 須雲川経由の道には中間に畑宿という間の宿があり、甘酒茶屋といった休憩場も豊富
- 歩行上の負担説: 運動学的見地に立つと、須雲川経由は総カロリー消費量で優位
それらに対して自分の脚を使って体験し、それをGISを用いて定量的に証明するのがGeo walkerの務めだと考える。
今回は湯坂道を実際に歩いてみて、「歩行者の道」として優れていると感じた。
確かに標高差こそあるが、健脚な江戸時代の旅人にとって、それが主要な原因とは考えづらいと思った。
その疑問は石畳の道を滑りそうになりながら、深まるばかりだった。
感想・結び
湯坂道を歩いたことによって、次の感想・疑問が得られた。
- 尾根沿いの道は人が歩行する上では快適である
- 一方、須雲川に沿う旧街道を維持するためには石畳という高度な技術を必要とする
- にもかかわらず、江戸時代以降の東海道は湯坂道を主要な道として選ばなかった
- 歩行しやすい湯坂道を廃し、石畳を整備してまで谷筋の道を作ったことは何らかの「意図」の存在が感じられる
- それは単なる「歩行者の生理的負担」という運動学的要請だけでは説明しきれないだろう
次回予告
この日の午後は箱根峠から平安鎌倉古道を歩いて三島に至った。
その結果、上記「疑問」に一定の仮説が得られた気がする。
詳しくは次の記事をご覧ください。
Xにも、この日の行動履歴を投稿しています。
https://x.com/susumuis/status/1984729995504468254?s=20

⚠️注意
本記事は筆者の体験記であり、登山や山歩きを万人に奨励するものではありません。
山歩きをされる場合は、必要な装備を整え、十分な事前調査をしたうえで、自己責任で行動してください。登山道の状況は刻々と変わります。この記事の内容だけでなく、必ず最新の情報をご自身でご確認ください。また、現地の案内やルール、地元住民への配慮も忘れずにお願いいたします。