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箱根峠から三島へ平安鎌倉古道を歩く ― 「人の道」が「国の道」に変わる要件

箱根峠の西、ここから三島までは2つの登山道がある。
一つは国道1号線と並行し、山中城址付近を経由するルート。
箱根八里』の一部だ。

もう一つの道は、現在では『平安鎌倉古道』と呼ばれる。
その名の通り、古代から中世まで使われた古い道だ。
今回はこの古い道を通って、箱根峠から三島へ向かった。

前回のおさらい

前回、私は箱根東坂を『湯坂道』という古代・中世の道を歩いた。
尾根筋で水はけが良く、たいへん歩きやすいと感じた。
しかし、江戸時代の東海道は湯坂道を選ばなかった。

歩行しやすい湯坂道という通路ありながら、道を付け替えたのはなぜだろうか?

そんな疑問を持ちながら、2025年10月2日(日)午後、
芦ノ湖でカレーを食べた後、箱根峠先まで東海バスに乗った。

東海バス車内

平安鎌倉古道とは

平安初期、箱根芦ノ湖湖畔を経由する道が開かれた。
足柄峠経由よりも距離が短く、多くの旅人が通ったという。
『十六夜日記』にもこの道についての言及がある。

そのうち箱根峠より西側については長く人々から忘れられていたが、
平成2年にゴルフ場建設のための発掘により、発見された。

現在は『平安鎌倉古道』の名の登山道として開かれ、
三島市のWebサイトにも案内が掲載されている。
https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn032433.html

接待茶屋付近の崩落は未だ復旧せず

接待茶屋 バス停を降りた。

接待茶屋バス停を下車した筆者

この付近から平安鎌倉古道入口へショートカットできると思っていた。

だが、残念ながら登山道崩落のため通行不能になっていた。
令和1年の台風により、接待茶屋付近の登山道が崩落していたのだ。

それから6年経つのに、未だ、歩行者は国道を迂回することを求められていた。
結局、反対側の通行止め地点、茨ヶ平(ばらがだいら) まで20分も歩くことになった。

接待茶屋付近通行止めゲート 茨ヶ平付近通行止めゲート

大きなタイムロスだったが、重要な気づきも得られた。

この日は3連休の中日。
国道の歩道は多くの歩行者で賑わっていた。
湯坂道の歩行者とは比べ物にならない。
現在の 観光資源 として 『箱根八里』 は非常に強いのだ。

平安鎌倉古道を歩いて三島へ

さて、芦ノ湖カントリークラブ方面への道を進む。
その先には高級別荘地がある。
ここを通過するのは、ゴルフ場利用者と別荘住民のみだろう。

関係者以外立入禁止」という看板も掲げられている。
なるほど、むやみに出入りすることは控えたほうがいいかもしれないが、今は行政のWebサイトにも掲載されている道を利用するためなので、問題ないと判断して通行した。

三島方面を見ると三島・沼津の市街地の向こうに駿河湾が広がる絶景だった。

三島・沼津の市街地から駿河湾まで一望できる景色

自分もお金があったらこんな景色の良い土地で別荘を持ちたいものだ
などと考えながら歩いていると、感じの良い老夫婦に声を掛けられた。

「どちらへ行かれるのですか?」

「平安鎌倉古道を歩こうと思っています。」

「この先に左に入っていったところです。今はとても怖い道ですよ。」

「ありがとうございます。気をつけて行ってきます。」

別荘地という場所柄、見知らぬ人に声をかけるのは防犯の意味もあるのだろう。
しかし、丁寧に教えていただき、とてもありがたかった。

言われた通り「鎌倉古道入口」と小さく書かれた登山口があった。
平安鎌倉古道の取り付き地点は地形図に線が描かれていない。
ひとまず入口がきれいに整備されていることに安心した。

平安鎌倉古道芦ノ湖側入口

平安鎌倉古道はよく整備されていた

湯坂道同様、尾根沿いの道で水はけが良く歩きやすかった。
林は深いが、ピンクテープや看板の案内がしっかりあるので安心だ。

林は深いがピンクテープや看板の案内がしっかりある 林は深いが歩きやすい

さらにいくつもの林道が合流しては離れていく。
いざとなったとき車両が近くまで入れることは安心感が大きい。

いくつもの林道が合流していく

最後まで「怖い」と感じることなく、順調に登山道を抜けることができた。

歩きやすく整備された道 歩きやすく整備された道

元山中からの絶景

視界が開けると、元山中という集落に出る。
背景には雄大な富士山、眼下には三島市の平野という景色の素晴らしい農村だ。

眼科には三島市の平野 背景には雄大な富士山

尾根道ならではのこの眺めは、谷筋の道では決して味わえない。
古の旅人たちも、この景色に心を動かされたことだろう。

暗闇の道の恐怖

元山中から三島市方面へは農道が続いている。

ここで私は一つミスを犯したことに気づいた。
持ってきたヘッドランプが点灯しないのだ。
三島市の明かりはすぐそこに見えるが、左右の茂みがガサガサしている。
動物が潜んでいるのかもしれない。
ここで明かりを失うのは怖い。

夜景が美しい 日没直前の道の様子

しかし、無情にも日は沈んでしまった。
街灯のない農道はたちまち真っ暗闇になった。

ついに何も見えなくなった

ヘッドランプのメンテナンスを怠っていたことを後悔するも遅い。
スマートフォンの明かりを頼りに車道伝いを歩くと、なんとか町にでることができた。

街灯のある町に出て安心した場所

スリルから解放されれば腹が減る。
三島の蕎麦やで食べた、三島コロッケ、刺身、ざるそばが美味かったのは言うまでもあるまい。
伊豆、箱根、御殿場への十字路にして、駿河湾の海の幸が届く三島は食に恵まれている。

三島コロッケ 刺身 ざるそば

この旅で得られた仮説

今回の旅によって、Geo walkerとしての研究において重要な仮説を得ることができた。

ここから先はやや専門的になるので、ご容赦ください。
旅行記だけ読みたい方は「感想・結び」まで飛ばしても構いません。

仮説1: 尾根筋の道は維持しやすい

事前の不安に反して、平安鎌倉古道の通行は安全だった。
それは、道を維持してくださっている方たちに感謝するところである。
しかし、ここを通行する人は少ない。
ということは、登山道の整備にかけられる予算はさほど多くはないだろう。

対照として、接待茶屋付近の崩落修理が未だに完了していない。
あちらは観光需要が高くより多くの予算が使える可能性があるにもかかわらずにだ。

  • 多くの行楽客が通り、観光需要があるのに、修理が終わらない、江戸時代の道
  • 通る人が少ないのに、維持されている平安鎌倉の道

それはつまり、この尾根沿いの土地は
より低いコストで道が維持できるということではないだろうか?

登山者の間では、谷は危険、尾根は安全というのは常識でもある。
古代の道の考え方もこれに一致するはずだ。
すなわち、「湯坂道」であり「平安鎌倉古道」と言った古代の道は、
作りやすく、壊れづらく、直しやすく、歩きやすい、尾根の道が選ばれたのだ。

よく考えれば、湯坂道にも、平安鎌倉古道にも、橋が一つもなかった!
それだけでも十分な理由になるかもしれない。

仮説2: 近世以降の道は、谷沿いの町の近くに作られる

今回、暗闇の道を歩くという恐怖体験をしたが、同時にあることに気づいた。
尾根沿いの道は、三島の都市がすぐ側にあるにも関わらず、険しいのだ。

一方、谷筋の東海道は他に深くまで町が開かれる。
それは尾根上の道からも確認できた。

向こうはあんなに開けているのに、こっちは三島の都心ギリギリまで山じゃないか!

これが、近世以降谷沿いに道を開こうとした所以ではないかと思った。

  • 谷沿いは、水資源が得やすい
  • 農業ができる、温泉も出る!
  • つまり人が集まる

大名行列が行く江戸時代には、馬や物資の供給が重要だった。
そのためには、街道沿いに一定間隔で集落を形成し、人を集めておく必要があった。
街道には宿場町が整備され、宿場間が開く場所には間の宿という「休憩所」が作られた。

道には一定間隔で町が必要。
それが、集団を通し、物流を担う“国のインフラ”としての道の要件であり、
単に「一人の歩行者として通りやすい」というだけではだめなのだろう。

そのために、
国が必要と判断した道は、橋が築かれ、地盤が改良され、立派な道として整備される。
一方で、そういった道は、国が必要としなくなったときには、荒れ果てるのが早いのだ。

感想・結び

湯坂道・平安鎌倉古道を歩いたことによって、次の仮説が得られた。

  • 歩きやすさだけでは、道の運命は決まらない
  • 尾根沿いには道の作りやすさ、歩きやすさ、見通しの良さという通行上の合理性がある
  • 谷沿いは集落の作りやすさ、人の集まりやすさという経済的な合理性がある
  • それぞれの道には、その時代ごとの“合理”があった
  • その時代の社会制度、土木技術レベルによって最適解が変化する

こうして「湯坂道・平安鎌倉古道」から「箱根八里・江戸の東海道」、現在の国道1号線へと道は変わっていった。
社会や時代の要請によって、街道は姿を変えていく。
その中で、それぞれの道には、それぞれの時代の物語が刻まれているのだ。

その後、Geo walker研究の方向性について

「歩きやすさ」から「道の作りやすさ」へ、そして「町の作りやすさ」へ
道の形成に関するファクターとして気づいてしまったとなると、
私はもっと土木史の知識を身につける必要があると思う。

  • 橋はどのように作るのか
  • 道が壊れたときどのように直すのか
  • 川から町へ、どのように水を引くのか

これらを無視して研究を続けるわけにはいかないと思う。

そう思って、東京へ帰宅後、早速、書籍を取り寄せた。
今は追加された参考書籍の山を読み解いている最中だ。

大量の参考書籍が追加された

これらの知見を含めたうえで、GIS分析のモデルに加えることで、
包括的かつ定量的に道の分析ができたら楽しみに思う。

文献を読み、自分の脚で歩き、工学的な知見も吸収し、データ分析をする。
それが、歴史学者でも、民俗学者でも、運動生理学者でも、情報科学者でもない、
在野の行路者」である私の役目なのだ。


この日のフルの行動履歴はXで投稿しています。
https://x.com/susumuis/status/1984825560405889256

⚠️注意

本記事は筆者の体験記であり、登山や山歩きを万人に奨励するものではありません。
山歩きをされる場合は、必要な装備を整え、十分な事前調査をしたうえで、自己責任で行動してください。登山道の状況は刻々と変わります。この記事の内容だけでなく、必ず最新の情報をご自身でご確認ください。また、現地の案内やルール、地元住民への配慮も忘れずにお願いいたします。